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独立に向け準備

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提供 (有)岡田製作所 〒300-0501 茨城県稲敷市鳩崎881
TEL 029-892-6481 FAX 029-892-3377
釣具ガイド(クリスタルガイド SICガイド ハードガイド ステンレス2重巻きガイド、ミルドラム)、
(アンティークガイド、中通しガイド、石鯛ガイド、イソ、キスS環その他)
オクトパスリールシート。
方位磁石…レンズ付きコンパス、6色カラーコンパス他多数あります。
方位磁石用ピポット(V石)

『独立に向け準備』

岡田製作所のスタート

ナガオカに勤めながら和光市に9畳の作業場を父四朗と建てることにした。2寸5分の杉柱を使い1間半と3間半天井はない、屋根は片流れにし、2寸5分の長さ2間の角材を3尺おきに並べたその上に垂木材を取り付けた。

天窓が4か所、2枚引きのガラス戸、1枚の片引き戸、3尺と1間のガラス窓2か所、内部眞壁ベニヤ張り、外部5ミリの耐水ベニヤ、屋根、波板カラー鉄板、床杉板、内外装ペンキ塗り、外部のペンキは白粉色の薄い塗りだったが16年Dscn2383間剥がれたりし無かったこの作業場の写真は本当の貴重なものになっているあと1カット窓の写真が残るだけとなった。クヌギの木が大事なのでくりぬいた、屋根にいるのは父の四朗、母の後ろに見えるのは2階家ですから、高いのが分かると思います。土台が低いのも分かる。此の山は60坪もあるんだが、平らで使える所は7坪しかなかった。 

柱細かったので屋根に角材を載せる時、揺れるので、切込みが壊れたら拙いと思いながら何とか載せた。ヌキで斜めに仮止めしたと思うが今は忘れた。何しろノミで1か所ずつ穴開けるんだから大変です。

Dscn0458 やっと見つけた作業場内部。北側の窓の前にすり機械が見える。この装置は使えなかった、結局手で摺ったのだが、鋳物板の研磨剤を付けながらガラスのコンパス軸受けを作った。私は結核が治り顔が太っています。

この建築途中のベニヤの眞壁張の最中に、陥落性肺炎という、結核を患ってしまった、24歳だったか、1年半ストマイの注射とヒドラジット、食後3回飲んだ、結核になると、虚無感に襲われるんです、あまり気持ちの良いものではありません。胸に湧き上がる熱い血潮が感じられなくなります。ギターを弾いている写真痩せてDscn2381います。2階の部屋にて、

幸い菌は出てなっかたので、自宅療養で済んだ、念のため清瀬の結核病院でも診断してもらった。ストマイは尻に打ちます、小児科の開業医で、半年も経つと見る見る太ってきた、母が毎日豚肉料理を作ってくれた、1年半の頃になると彼方此方にできものが出てきて困った、何を塗っても治らなかったが、

「白子時代、長屋時代」

オロナイン軟膏が特効的に効いたのでした。この間四朗はコツコツと内装のベニヤを1人でやり抜いた。柱の間にぴったり収まるように作るのはとても大変です。筋違はヌキしか入れてないが、外壁に張った大壁の5ミリのベニヤが、強度を上げた。

屋根が軽いので丈夫であった、二階の窓より高い所に建てたので、凄い台風のたびに、隣のおばさんが不思議そうに良く大丈夫ですねと、毎回言いに来ます。後ろに建ってた、本建築の屋根がそっくりすっとんだ時も不思議そうな顔して訪ねます。

飛ぶわけありません、機械家が建築のコツで勉強して作ったのだからねー。

最近やっと白子時代の増築した家の写真が出てきたのでした、私32歳位と思われる、Fh000030 親父が山梨から変な大工3人を連れてきた、この辺では信用がないので建具屋は家が払ってくれるなら作りますというありさま、7畳に大人6人が寝起きしたんだからまったく。

最後に別途謝礼金をくれと言われ困ったが、自分のボーナス5000円貰った所だったのでそれで、いいことになった、5%位取られたら2万以上はらはなくてはならず、こまったが。

最後にへたなところを、何か所か指摘したら頭に来たらしく、用事があって電話に出ると物凄く怒るのが20年位続いた。通し柱が10本もあった。

板金工事を全くやっていないので、後から親切な板金屋が全部やってくれた。下の写真の緑に見えるのがその一部です。ガラスの外用の建具はスプルすにしたら、初めは綺麗で良かったが東側は数年で腐ってきた、日当たりの方は大丈夫であったが。ひさしも無かったから仕方がない、坪単価35000円出せばもっと良い家に出来たのだが、この当時は木舞屋が組みに来てくれた、今では大変高級なものになってしまった、今考えるとここは別荘に取って置けば良かった、良く夢にみます。

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Fh000028 隣が火事を出してしまいこちらの風向きだったので、この屋根に上り親父と交代でバケツの水を掛けて類焼を防いだ池の水が漏れて三分の一位しかなく、全部使えば鯉が駄目になるので、通りの用水路まで水をくみ羽目板に掛けたもう駄目か、と思う頃消防士が前の家から垣根にホースを持って現れた、助かったと思ったら水が出ないぞと絶叫してた、何しろ3間先のでかい二階屋が燃えているんだからもっと風が強ければやられていた、火災保険は入っていなかったから。

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Dscn0456 この低い縁側がとてもくつろぎやすかった、沓脱石や廊下の板は持って来るべきだと今も後悔している。そもそもここは売らずに持ってればよかったと思うよ。

隣は焼け太りであったが、出火原因は母屋の風呂、元は料理旅館だったから100坪も有っただろうが、その別棟の二階にも火が移り…。実はこの時モチノキ2本が防火樹木の役をしてくれていたのです。一本は半分が焼けていたが残りの半分で今でも生きている。もう一本は仕立物だったので、1メートル位残して燃えてしまった、しかしこれも今でも生きています。火災中は気が付かないがきっと水を吹き出す活躍をしたのだと思う。

おふくろはもう駄目だと二階から布団を下していて、腰が抜けてしまい、布団に埋もれていた、誰と分からない人達が続々と荷物を運び出してくれるのにはびっくりした、酒屋などの御用聞きが来てくれるのは分かるのだが、まったく知らない人がやってくれたのです、無くなったものは一つも有りませんでした、親父の退職金を入れた風呂敷包が見当たらず青い顔してさがした、左隣の敷地に落ちていた。胸をなでおろした一瞬でした。

Fh000032私32歳のたった1枚しかない写真がでてきました、写真と言うのは自分の家や周りもある程度考えて撮っておくべきだと思う30代40代50代と非常に少ないんです会社の場合は昔だったら一泊旅行で、残るが夢中で働いている自営の場合、子供の写真は山ほどあるが撮っている自分の写真はないんですよ。

奥に見えるピンク色の家は隣の家で火事で立て直した2階屋です、山と呼んでいた敷地からの眺めです、自分の二階家は右の方で、見えていません。この高い所に仕事場のベニヤ外壁の家を建てたのです。Fh000031 これが貴重な3枚のうちの1枚の外観です。上さんは二人目ができていました。

Fh000029 道路から家までの5尺の私道です、隣の家が樫の木10本も、のばしっぱなしで落ち葉の掃除と日当たりが悪いので空師に頼んで枝下しした、すっきりしてから引っ越した。

Fh000033 玄関前の写真右は風呂場。

               

Fh000039 玄関の上がり框デコラがはってある、耐久性は満点だった、冷たいが。

余談猫のミーちゃん子連れで痩せてふらふらでやってきた、餌を食べて元気になったが、急に発熱してしまった、常盤台の医者で見て貰ったところ、まだお腹に子供が残っていたとか、痩せて産む力がなかったのでしょう、大きな三毛猫で、お利口で家で飼っても大丈夫な猫でした、大きな猟犬が入って来ると、イヌの腹にあおむけになり、爪で引っ掻いて追っ払ってしまう勇ましい猫でした、ネズミは良くとって来るし14歳ぐらいになり歯がぐらついて曲がってしまい食べずらそうなので、医者に抜いてもらった、馬鹿医者だったので、麻酔をかけてしまい、腎臓が駄目になってしまった、他の医者で点滴用の薬を皮の間に注入してやると元気になり餌をよくたべる。之の繰り返しで半年はもったが段々弱ってきて炬燵でおしっこ洩らしてしまったのをちょっと叱ったら、其のあとやっとの思いでおしっこ場にいって、息を引き取ってしまった。こんなに弱っていたのに叱ったりして本当に俺は駄目な奴だった今も多分そうだろう。じっくり猫を可愛がっているような人生を過ごしたいものです。END

病気中ナガオカの社長は休職扱いにして、厚生年金を払ってくれていました、落ち目の今となればすこしでも年金額が上がるので、今思えば有難かった。この間部長にナガオカがクリスタル部門をやめにしたいと社長が考えているから私にそれをやらせてくれるよう。伝えて欲しいと頼んでいたのですが、それはちょっとまずいんじゃないかと、さっぱり進展しなかった。

この写真はナガオカ研究部の2階でダイヤ針の加工の設備をして加工の研究Dscn2384も出来る様にしたところです、手前にいる自分は既にかなり痩せています。段々病が進んでいたときかもしれません。

部長ではらちが付かないので、社長に手紙を書いて送ったところ、すぐに反応があり、やってみるかとなったのでした、この時片山さん当時検査部長が窓口となってくれて、面倒をみてくれた。しかし技術的に未熟だったので順調とはいかなかった。そのことは細腕繁盛せず記に続いて行きます。http://www.oksguide.com/

Dscn3519 実はつい最近2011-07-25頃姉が千早町の長屋の家が映っている写真を入手したのです、昭和12年〜15年頃のものだと思われます、ネクタイした方が、米屋の御主人で、私の祖母がお茶屋をしていた頃に店の縁台を小道具にして、記念撮影したと思われます。

此処には昭和31年まで、すんでいました、高校1年までいました、左が店で右は6畳の西向きの窓です、この窓から夏休みに道路際の家並みの絵を描いた覚えが有ります。汚かったはずの長屋の面影は、今ではとても綺麗だったなーと、懐かしくてしかたがありません、当時の家並みの絵が描けたら素晴らしいのにと想像で絵を描けないのが残念です。

板塀の写真には思い出としては、お神輿がやってきてこの塀をグラグラにした、槇の木とザクロが植えてあった、大和塀の様だが板が隙間が無いのがこのころの作りだった。Dscn3522 右は近所の家の自宅で一家が記念写真を撮ったもので、剥げたおっさんは元特高警察出たらしく怖い人で羽根つきの羽やボールが入ると良く怒鳴られた、まそういう怖い人もいるのが世の中だ。隣の床屋の板張りが背景になって居る左の子が床屋さんの子として、大きくなって、わたしの頭をかってくれた、この辺りは家は駄菓子屋、八百屋、魚や、米屋、下駄や、桶屋、骨董屋、郵便局、運送屋、少し離れるが、荒物屋、蕎麦屋、酒屋、貸本屋、セント、等が、あった。此処に焼け出されて転がり込んだ。

『祖母は実家の静岡ヘ行ってたまに、帰ってきてた、名前が、たま、だった。一緒だとコメが食べられないからとか。祖母は九州のミッションスクールを卒業ご福岡の美大も行ったったらしいが卒業名簿に名前がないのでどうやら子供が出来たので退学したのかもしれません、静岡の実家で子供の世話をするのが嫌で銅山で当てた九州のおじを頼ってミッションスクールを出た(当時は先生が3人生徒が3人)、バリバリの職業婦人でした、名前が玉(瑞)なので猫のごとくすぐ子供を作ってしまった、家庭教師に行っていた僕ちんと出来てしまった、海老江了とかというなまえで、稼ぐために朝鮮にいる姉を頼っていったきり帰ってこなかったと聞いている、真偽のほどは不明 鎮子(しずこ)と照を生んだテルの子が、自分で有ります・瑞はその後少年倶楽部で水江(すいこう)として読者には男の評論として接していた、編集長を助け一人で少年倶楽部を切り盛りしていた、その後加藤謙一さんが素人と編集長になり一人前になるまで3~4年面倒を見たようだ。今のNHKドラマの花子に出てくる蓮子と同じ時代に活躍していたと思う。
講談社の大日本雄弁の編集長をしていた岡田春吉と結婚した。自分の岡田姓は血のつながりはないが母の照は随分と可愛がってもらった豪放磊落で素晴らしい努力家で有った、急性肺炎であっという間になくなってしまった、社長の間野さんの嘆きは深くこの本の出版はやめになった、もうけを度外視してでも、自由な論陣を載せる雑誌としてスタートしたのだが…今の現代の前身であった』

この借家は11.75坪で敷地は18坪でした、他の4軒は、今でも2階家にして皆すんでいます、100歳のおばさんもいます。子供は早死にで俺の同級生は42歳で、その姉も52歳で亡くなっている、姉の生んだ孫がすんでいる。椎名町から徒歩7分、池袋からは、20分、のところです。この以前に住んでいたのが、池袋だったが焼け出されてしまった。その面影の再現が、牛久邸になっています。

2014.08.11 Monday 09:30 | 
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